火曜日に自殺をしようと思う。

なので、誰も見ていないこのブログにでも遺書をしのばせようと思った。
ここならきっと誰にもわからないだろうから。
しかしいざこうして書こうとすると何一つとして書くこと、残すことがないから困ったものだなあ。
とりあえず自殺を決めてから変わったことでも書くかなあ。

楽になった。まず。
自動車学校就職活動政治の混乱世代格差ジェンダー友人関係親戚関係徐々に貧困化していく地元の経済資格取得単位取得すべてから解放される。少なくとも解放された気になる。
もう何も考えなくてもいい。何もしなくてもいい。
「ゆとりのくせに」とぶつくさ言われることもないし「女は出て行け」とつまみだされる屈辱も味わわなくていい。

何もしなくていい。

もう学校にだって行かなくていい。毎日Fランク以下の短大に通ってよだれを垂らして眼の焦点も合わないままにゲヘゲヘ笑っている20歳相応の知識も常識も持ち合わせていないあいつらと顔を合わせないでいい。
大学に編入できなかったコンプレックスをこの先死ぬまで抱えなくていい。

その原因である失業した父と顔を合わせなくていい。
そもそも根本的な原因である、大学に行きたいことを隠して高校入学とともに人生を捨てた自分の間抜けな選択をなかったことにしていい。
「建前の目標でもせめて貫徹したい」という鼻くそみたいなプライドから取らずに遊んでいる周りの人間をしり目に司書資格の講義を受け続けて週に5コマ×90分ほどをドブに捨てる無駄な人生をこれ以上歩まなくていい。

サークルにだって行かなくていい。全くと言っていいほどに向いていない華道だってもうしなくていい。お花代だってもう納めに行かなくていい。
そもそも部長をこれ以上しなくていい。人をまとめ上げることなんか考えなくていい。少しこちらが口ごもるとすぐに関係ない話をしだすのに理解者・協力者面をする1年生たちとも会わなくていい。何が尊敬だ。

外にだってでなくていい。近所の元同級生たちに会わなくていい。「あいつ今何やってんの?」の問いに恐れなくていい。あの屈辱的な制服を着て歩くことに恐れなくていい。その前に着なくていい。ご近所さんに会ってあたふたしなくていい。誰にも会わなくていい。

誰にも会わなくていい。家族にも会わなくていい。私の短大入学直後に突然ニート生活を開始して、「誰のせいで食わせてもらえると思ってる!
」ってな具合の常套句が使えなくなってたちまち面白いように縮こまって録画した深夜アニメを見るだけ、実の親からすら半ば見捨てられているようなうんこ製造機になった、そんな風になりながらいまだに自分には人を叱る権利があると勘違いしている父に会わなくていい。
父が階段を上がってくる音にびくびくしなくていい。

私が絵を描いていることをさんざん恥だと言い続けて、美術科がある高校に行きたい、と言った私に「お前を美大に行かせる金なんかない」と取り合わなかったのに、いざ私が高校の美術部に転がり込んでちょっとした賞を取ったり、描いた漫画がダウンロード販売でお金になることを知った瞬間に
「なんで美大に行きたいと言わなかったの!」となじった母に会わなくていい。
母が恥だと言っていた頃と私の絵は変わらないままで、ただ人に伝えたりお金にするところを見つけただけなのにそこには全く気付かない母の鈍さをこれ以上見なくていい。
有頂天になって「うちの娘がお金持ちになるかもしれない!そしたら食わせてもらえるかもしれない!」と親戚に触れまわっている母の姿を見なくていい。私が表現を楽しみ極めていくことで周りの人々があさましくなっていくかもしれない、そんな心配をもうしなくていい。

これ以上母に余計な期待と落胆をさせなくていい。私はあの人たちが思っているような大した人間じゃないということはこれまでの私の進路選択を見てきづかなかったんだろうか。そんなに信じたくなかったんだろうか。火を見るより明らかなのに。


兄の重荷が減るからいい。あの人には幼少期から散々迷惑をかけた。「お兄ちゃんなんだから」で何もかも我慢させて、欲しかったであろう親の愛情を私は全部吸い取って、その結果出来上がったのはこんな歪つな化け物だったというのが笑わせる。中学時代は躁鬱を発症させて周りから気味悪がられていた私の兄として多大な迷惑をかけた。私がいなくなれば自然と一家離散状態になるだろう。そうすれば兄はこんな未来のない大地に思いを馳せる必要はなくなる。兄ちゃん、東京はきっといいところだと思うよ。少なくともこの家と比べれば。

私がいないことで母はこの家に縛られている必要がなくなる。大嫌いで知性のかけらもない感情だけで生きているような父と一緒に居続けなくていい。


面倒なメンヘラがこの世から一人消えるからいい。メンヘラと言っても別に精神科にも心療内科にもかかったことはないし薬も飲んだことはないけれど。いろいろこじらせている人間はメンヘラで、とりあえず周囲の人間を幸せには間違えてもしない役立たずだと感じるので死ぬべきだと思う。

保守派のイメージを下げる人間がこの世から消えるからいい。人前でうまく話せない、こちらに対して悪意がないはずのバイト先の人たちの中でもみんなが遠くで談笑してる中一人だけ黙々と作業をしている情けない自分が国のことを真面目に考えていてはいけない。保守のくせに若干わずかばかりフェミが入っている時点でもはやどうしようもない。
思索をするにはもう体力がない。



自分よりできない人はずっといて、私はきっといろいろと恵まれている。だから頑張っていろんなことをして結果を出さなければならないのだと思う。

でももう無理だ。

体力がない。心に体が続かない。
トラックと私の首がロープで繋がれたままにエンジンがかけられ走り出したような人生だったと思う。最初のうちは必死で追いつくように走っていたけれど、一度どこかで転んでしまってからはひたすらアスファルトの上を引きずられている。周りの人たちが歩道のところから「立ち上がれー」って声を掛けているのはわかるのだけど言う通りにはできなくて体がよく動かない。

休みの日に昼まで眠っていたら何がいけないのだろう。それでも疲れは取れなくて寝なければ集中力もつかないし眠たいままなのに。言われたとおりに早起きをして眠いままに作業をぶち壊して集中力がないとため息をつかれる。こうだ。ずっとこうだ。

死にたいんじゃなくて寝たいんだ。誰にも咎められないように。

だから私は金もかからず手っとり早いドアノブ首つりでなく、七輪練炭着火剤下に敷くレンガおむつ睡眠薬と金がかかり、場所を確保するのがまた面倒な練炭自殺を試みる。

クローゼットの中にベッドマットとふとんを持ち込んで布テープで目張りし、練炭に着火して睡眠薬、頭痛吐き気止め薬を飲んで抱き枕抱えていつものように寝る。うん。完璧。
途中で人に気づかれないように時間にも凝る。午前中希望。
一度学校に行くふりをして一度家を出て、母がパートに出る9時を見計らいこっそりと家に帰り準備をしてほい。母が帰る5時まで家は無人。半日もあれば一酸化炭素中毒死なんてかんたん。うん。完璧。

一度自殺を図り死んだ人間は自分が死んだことに気づかずに延々と自殺を繰り返し続けるとかいうオカルト話にも完全対応。首つりとか飛び降りみたいにぐっちゃり潰れるわけでもなくひたすら寝てるだけだから問題なし。うん。完璧。
1畳そこらのクローゼットに七輪三つも持ち込む予定。未遂になんかするもんか。うん。完璧。

我ながらよく考えるなあえらいなあ。でもこの計画力はきっと死ぬことにしか使えないんだろうなあ。

よく「死ぬ気があるならきっと何でもできるんだ!」的な文句を聞くけれどもあれがいかに意味がないかを死ぬことを真面目に考えるようになってから実感したものなあ。
死ぬ気は死ぬことにしか使えないのよ。だから死ぬ気なのよ。死ぬ気なめちゃだめよ。

火曜日から訪れる長い長い休みに思いを馳せる。だから日付が変わってやってきた月曜日も全く怖くない。むしろたのしい。
死ぬのはいいぞー。月曜日もこわくないぞー。


本当は楽しみなこともあるんだけどなあ。次の衆議院選挙絶対面白いんだろうなあとか。閣僚総理経験者がどんどこ落ちるであろう選挙とかマジインタラスティングじゃね?とか。09年以降ある程度政界が変わったように13年以降ではどんなように変わるのかな?とか。
好きな人とも近付けていたのになあ。この間初めて笑いかけてくれたときは本当に嬉しかった。私を見つけて笑いかけてくれたときは本当に 本当に嬉しかった。でも既婚者だろう。これまでと同じように。
そういえばまだ誰とも付き合ったことないっけ。

人生をフルコースに例えると私はこれから来るであろう大量の御馳走をごっそり残したまんま席を離れて帰ってこないってことになるんだろう。でももうおなかいっぱいです。ヘドロが喉に溜まって上手く飲み込めなくて涙目なところにまたヘドロが来るんだからもういいです。一滴蜂蜜をなめさせてもらったからと言ってもう騙されはしません。賢い消費者たれ。



ああ楽しみだなあ、死ぬの。

うわああ惚れたあああああ

うわああ惚れちゃったあああ恋だあああ
15歳の時以来の5年ぶりの恋だよぉぉぉぉぉ


アルバイト先のコンビニに来るお客さんに恋をしてしまった。
名前すら知らない。だってTポイントカードに書いてないんだもの。
どうして惚れたのかすら定かでない。オープンから顔を見ていた人で、一時までは普通の顔なじみのお客さんだったことは覚えている。

あ、ひとつ覚えてた。
おでんに継ぎ足す汁を作り終えた後水道の蛇口を冷水のほうに回すのを忘れたまま熱湯で手を洗い、あまりの熱さに「アオォ!」と思わず奇声を上げて両手をブンブン振りまわしていた2月の暮れの夜。ふと背後から感じた視線に振り替えると、レジ台にコーラをおいて実に神妙な顔つきでこちらを見ているあの人がいた。

静まり返った日曜夜のコンビニ、店内にいるのはあの人と私一人。あんまりブンブン振り回しまくっていたので、気恥ずかしさとお湯がかからなかったか心配な気持ちでいたのを覚えている。


あの人を心配する気持ちは、あの人が来るとふと安心する気持ちを経て、ゆっくりと恋に変わったように思う。


あの人が好きだ。理由は全くわからない。
どんな性格なのかもわからない。よく車の雑誌を見ているので車が好きなのだろう。それが趣味なのかはわからない。
イケメンではない。例えるなら楳図かずおをちょっと若くした感じ。
どこでどんなことをして働いているのかもよくわからない。コンビニはオフィスビルの一階にあるので、たぶん上の階で働いているのだと思う。
そもそもおじさんだ。家庭を持っていてもおかしくない。

どこを見渡しても、見事にないないづくし。

店に来ない期間が一月ほど空くこともある。そんな毎日が続くたびに、私はいっそ忘れてしまうか脳内彼氏にして妄想の存在にして楽になってしまおうと決意する。すると、タイミングでも見計らっているようにふいとやってきて、時々私に話しかけたりしてくれる。

ある時勇気を出して「またいらしてくださいね」と言ったことがある。
「毎日来てるよ」とさらっと返された。

私がいるときに来てほしい…

なんだかもう何で惚れているのかわからない。もっと世界には魅力的な男の人がいるはずなのに。
でもあの人がいい。
あの人と手をつないでどこかを散歩することを想像するだけで、嬉しくてたまらないような気持ちになる。
他の人ではそうはならない。どんなにハイスペックで、周りの人が羨むような人を隣に思い浮かべてもあの人にはかなわない。


何でなのか、何なのかわからない気持ちに翻弄されてばかりだ。この問題を解決する糸口は、何となくもやもやと想像していることを現実にしてしまうこと、相手に気持ちを伝えることだと思う。


そんなわけでラブレターを書きます。何書いていいのか、さっぱりわからないけれど。

影響されることについて

去年はやぶさ展のようなものが地元の科学資料館で開かれたので、そこで買ったはやぶさのファイルを使っている。

2009年の暮れごろにネットのコピペではやぶさを知り、何度もそれを読んだりはやぶさのエピソードに感動した人のコメントを頻繁に見たりしているうちに次第に好意を覚えるようになって今に至る。

ここではやぶさに好意を覚えるようになった大きな要因は二つある。はやぶさとそれに関わる人々の情熱的なエピソードと、それらをよく目にする機会があったこと。

2010の初めからはやぶさが地上に帰還する6月13日前後まで、2chやコピペブログでははやぶさの話題を見ることが多かったように思う。同じ内容のコピペを日に何度も違うブログで見ていたりもした。最初見て「すごいなあ」と思っただけのものでも、何度も触れたりそれを好きだと言っている人をたくさん目にしたりすると親しみが湧いてくるものだ。


悪印象がないうえで、何度も接するものは好きになるのだと思う。


話は翻る。母が韓流にはまっている。
チャン・グンソクが大好きらしく、マッコリのCMがテレビで流れる度に家事や食事の手を止める。
一度、こちらから彼を話題にしたいことがあったが名前が思い出せないので「えーとあのチョー・ヨンピルがさあ…」と適当に話しかけてみたら物凄く機嫌が悪くなったことがあった。それくらい好きらしい。

好きになったきっかけを聞いてみると、夕方のドラマ枠で流れている「メリは外泊中」を目にしたから、らしい。「まあ流行ってるからね」とのこと。

母にとっての情報源はテレビか新聞、そのチラシくらい。ネットはこわいものとして遠ざけている。周りにいる友人もそうで、韓国好きの人ばかりだ。だから韓国は流行のコンテンツということになっている。視聴率がどうであれ。そもそもそういう人たちは視聴率など気にしない。テレビにたくさん出ているものは流行のもので、みんなが好きで見たいと思っているから出ている。デモ?テレビに出ないからそんなものはない。

テレビのバラエティ、ニュースの芸能に韓国の文字が出ない日はない。何度も接する物は好きになるのだ。そのテレビの現状がどうであれ。

母は毎晩、韓国ファンの友人からお土産に貰ったチャン・グンソクのマグカップを愛用しうれしそうに眺めている。
チャン・グンソクが出ていたテレビの話をこちらによくしてきて、どれだけかっこいいかということを語ってくれる。

自分もはやぶさのファイルを愛用していて、学校にも持って行っている。知って、なおかつ好きになった理由はネット上における限られた場所での流行。
何が違うのだろう。